全部おとぎ話であれ

きらいなものを1000文字で語る

何度でも後ずさりする私インマイヘッド

週末にとても悲しいニュースがあった。子連れで遊びにきていた友人の一人がスマホを見ながら大声で叫んで、内容を聞いた私たちも「え?!!?!」と叫んだ。

 

 

それからなんだかみんな元気がなくなってしまって、場を持ち直すような発言が続いたけど軌道に乗らなくて、なんとなくその日はお開きすることになった。時刻は午後4時。まだまだ遊び足らなそうだった子供たちの様子。

 

 

一人で後片付けをしながらSNSを開くと知りもしないだれかの空っぽなツイートが目に飛び込んでくる。イケメンの悩みなんてたかが知れてるとか不謹慎系YouTuberさんお仕事ですよ!とかそんな感じ。あーあ気持ち悪、こいつらどんな顔してんだろうなと思ったけれど、そこに行きつくということは私だってそういう詮索の仕方をしてるわけで、例えばだけど人のお名前の後ろに「理由」だとか「いつ」だとか入力して検索してる時点で私も結局そういう奴だよ、と悲しくなって見るのをやめた。

 

 

友人がそろそろ帰ると言ったときはホッとしたくせに今度はだんだんつらくなってきた。東京にいる親友が落ち込んでいるのがラインから伝わってきて、伝染するようにズズズと沼にハマっていくように足元が沈んでいって、そのままベッドにずぶりと横になった。

 

 

そうしていると連絡をちょうどとっていたマキちゃんと餃子を食べることになり、こころに細い光が差し込んだ気がした。ひとりだとそのままベッドから体を切り離すことができない気がしたから助かった。マキちゃんとマキちゃんの息子が材料を買っておうちに来てくれた。せっせと餃子を包んで焼いて、みんなで食卓を囲んだ。

 

 

その夜、単身赴任の夫が帰ってきた。入れ違いでマキちゃん達は帰った。私はアサヒスーパードライを2缶飲んで眠った。

 

 

朝、起きて子供をバスケの練習に送り出して、テレビをつけたら若き俳優の死の話題で持ち切りだった。大御所のお笑い芸人さんがこのようなことを言った。

 

 

「(魔が差しても)くっと一発寝ちゃったら、朝起きたら『危ないとこやったなあ』みたいになることもあるとおもうんですけどねえ」

 

 

とてもよく分かる。ほんのぎりぎりの、右にいくか左にいくかの綱渡りの上のようなギリのバランスだったら、朝起きて「昨夜はやばかった。あぶね~」みたいになることもあるとおもう。

 

 

けどどうかなあ、もしも本当に生きるのがつらくてつらくて仕方なかったとしたら。朝起きて「あっぶね~」てなるかなあ、むしろ「また死ねなかった」ってさらに沈んでしまうんじゃないかと、そんなことを考えてしまったな。

 

 

彼の選択の動機は知らないし憶測で議論が突っ走っていくのは見ていられないけど、私はぼんやりと「ていうかタレントって職業の人らってちゃんと守られてんのかな」とか思った。サラリーマンの過労死も問題だけどさ、このタレントっていつ寝てんだろうかみたいな人もいますよね。もしもしんどかった時に定期的に受診する時間は確保できて、しかるべき薬はあんのかなとか。いや、彼の亡くなる動機が何だったのかは私は分かりませんよ?そのニュースから派生した私のぼんやりとした頭のふきだしを書き留めているだけです。

 

 

昔から思っていた。夢が叶ったという言葉がいまいちピンとこないのは、叶った後もその人の生活は続いていくわけでそこでなんかきっついなーと思ったときに「でも夢が叶ったんだから」と言われたら後ろ道もふさがれるよなーって。選択の自由とか多様性とかみんな言うけど結局それって前進の仕方の話であって、「後戻り」に関してはいまだネガティブイメージですよね。後戻りっていうのも一つの選択であってほしいけど「すべてを投げ出して努力しました」とか「逃げ道を自分で潰して挑戦しました」的なのがやっぱ美談になりやすいよなあ。繰り返しますが俳優さんの死に関する言及じゃないですよこれは。

 

 

私も母親であって本業があって副業のライターがあってっていうパラレルワーカーなので「チャレンジ好きな人」と思われることが多いんだけど、私の場合はチャレンジ好きではあるけどそれと同じくらい後戻りもしている。3か月くらい付き合ったけどお金と労力に見合わなくて執筆お断りしたWebサイトの編集部もあるし、その編集者さんとは関係が気まずくなったままなんとなく今も相互フォロー。後味の悪いメールはまだ残っている。

 

 

まとまりはないけれどなんだかとても悲しく、やるせない気持ちになった週末だった。皮肉なことに今日は私の32歳の誕生日、これまた皮肉なことに空は晴れている。私だけが週末に残ってるみたいで、切り替えるにはこの上ない今日という日なのに、なんだか頭だけがついていけてないような感覚。

 

 

午前中の仕事が片付いたら一人でラーメン屋にでも行こうと思う。私にできることは世界を変えることではなくて、もっとミクロな、例えば自分のことを褒めてくれた人のスクショを見返すとかコンビニスイーツ「スプーン二つください」て嘘ついて家で一人で2つ食べるとか、そういうこと。そういうことしかできないけどそういうことが一番大事。体に小さな絆創膏貼っていくみたいなやつ。そしてそれはほとんど「気のせい」で「考えすぎ」な傷なんである。