全部おとぎ話であれ

きらいなものを1000文字で語る

美しくて不器用だった22歳の女性について

いつからだろう。思ったことを好き勝手書けなくなったのは。この気持ちを書きたいという波が寄せてきたとき、無意識のうちに自分でジャッジをしていた。そしてその気持ちの大半が「誰かが傷つきそうだ」と「そんなの誰が読むんだよ」の二つの防波堤に阻まれて水に溶けてなくなる。

 

 

このブログだってこんな風に思いのまま書くために作ったものじゃない。きらいなものについて1000字で語るとあるけれど本当にきらいなものについてなんていつも書けなかった。今日はとんでもなくテイストの違うことを書く。途中でいくら離脱してくれても構わない。あなたのために書くわけじゃない。

 

 

ずっと、やさしい人間でありたかった。なぜかって私はやさしい人間じゃなかった。痛い目を見てだんだんと思いやりの意味を知ってきて、それを過剰に証明するみたいに文章を書いてきた。だから嫌だったのだ、こんな風に思いのままに書いてまたやさしくなかった頃の自分に出会うのが。それはまるで人間性がふりだしに戻るようで。

 

 

昨日テラスハウスの木村花さんが亡くなったというニュースを見て胸の中の海が大きく波立つのを感じた。けれどそれに便乗して何かを書いたり呟いたりする輩がわいて出るのは目に見えていたし自分はそのうちの一人になりたくないという思いでまた防波堤を打ち立てた。ばかげてる。こうして場所を変えて書いたって結局私はそういうオナニー野郎と変わらない。

 

 

彼女がネットの誹謗中傷に苦悩していたと知った時、3年前に書いた自分の長編小説を思い出した。主人公は女子大生。亡くなったアイドルのブログが更新され続けていて、幽霊だの演出だのと憶測が飛び交う中で女子大生は恋をしたり傷を負ったりする。そして小説のラストシーンで女子大生もまた、亡くなったアイドルに誹謗中傷のコメントを一度、たった一度だけ書いたという過去が判明し、自分が「見知らぬアイドル」の人生を追い詰めるトドメを刺したことを自覚するというストーリーだった。

 

 

木村花さんへのネットでの攻撃が膨らんだのは番組内のとある事件がきっかけだった。彼女がルームメイトの一人に声を荒げて怒るシーン。視聴者が正義感から「自分のことは棚に上げてそんなに人を責めるなんて」というリアクションをした。

 

 

かくいう私も「怖いな、気の強い同性は苦手だ」という印象を持った。けれど同時に「私も22歳のときそうだったな」と冷静に思った。いやもっと酷かったかもしれない。19歳の時に元彼と取っ組み合いの喧嘩別れをして双方の両親まで巻き込んだことがある。

 

 

けれど私は「自分もそうだったな」とは呟かなかった。木村花さんに「自分もそうだったから気持ち分かりますよ!」とリプを送らなかった。「みんな感情的になった過去はあるはずですよ」とDMを送らなかった。

 

 

もし送っていたら。それでも事態は変わらなかったとしても、そういう言葉が一つでも多く届いていたら。

 

 

ネットには「黙る者」と「矢を打つ者」がいて前者は何の力にもなれない。だから後者しかいない世界のように感じてしまう。後者の中に一人きり、自分が放り出されると思うと耐えられない。

 

 

先月出版を発表した時、おめでとうと祝福に包まれるかたわらで数人が離れていった。その数人の間で行われる私への批評は、きっと誹謗中傷ではなかった。けれどそれでもつらかった。悪意が垣間見えたから。新たな批評を見るたび胸をおさえてリビングに寝転んだ。この時ばかりはリモートワークで良かったと思った。

 

 

私は飽きもせず批評を見に行った。自ら労力を使ってわざわざ傷つきに行っていた。批評の連なるnoteには毎回「数日後に有料にします」とあった(数日経ったら見られなくなるという意味)。私の価値とは何だろう。そこでよく悲観した。数日間だけ人を楽しませることができる私という人間の価値。

 

 

たまらなくなって相談した仕事の関係者の言葉は「プロならスルーすべき」だった。よくあること。少ない方。気にしてるうちはアマチュア。その通りだと自分に言い聞かせた。強くなろう。これまでもずっと反論しないで生きてきただろう。そういう自分を自分で「いい子だ」と褒めてきたじゃないか。

 

 

たった数回のそんな出来事で私のクリエイトは何度も死んだ。「これを書いたらこう捉えられる」「あれを書けば何を書かれるか分からない」。手が震えて胸が苦しく書き手として活動を始めたこの1年間に書いた何万字もの文章すべてを後悔した日もあった。

 

 

お酒と共に醜い本音が指先まで伝わることすらあった。私だって同じように匿名のアカウントを創設して、こっちの言い分を書いて、あなたの解釈の誤解を解いて、それに皮肉をそえて無料公開して数日後に有料にしてやろうかと思ったこともあった。あなたのようにTwitterで攻撃仲間を募るアンケートをとってやろうかと思ったこともあった。けれどそんなことをすればもっと傷つくのは私だと分かっていた。「自分は正しいのだ」と誇示してナイフを振り回したことは過去にもあったしそれは本当にみじめなことだったから。

 

 

そんな風にここ2ヶ月は精神が荒んだ。たった数回の批評で。じゃあ何百回と攻撃が来る人は?何千回と刺される人は?批評が批判や批難だったら?
木村花さんを筆頭にどれだけの人が私なんて比べものにならないくらいの涙を流したんだろう。

 

 

思えばバチェラー3の時もそうだった。ネットでかなりの攻撃を受けたバチェラー友永さんと岩間恵さん。私はそのカップルが好きでyoutubeもチャンネル登録したしインスタもフォローしている。正直DMも送ったことがある。「中傷に負けないでくださいね」。けれど同じ言葉を木村花さんには送らなかった。自分ひとりが何の力になれるのかという話だけど、それでも本当に申し訳なくて苦しい。

 

 

テラスハウスを観た後はよくニューヨークという芸人のyoutubeを観た。テラハの解説動画をあげていたから。最近加入したメンバーの林ゆめさんという可愛くてモテそうな女性を見て私は「チャラそうだな」と印象を持った。けれどニューヨークの屋敷さんは彼女を冒涜するのではなく「でもああいう女の子っているよな」「飲むならああいう(愛想のいい)子の方がいいよな」と話していて、私はなるほど、こうして人の悪口とユーモアを切り離す語り口は勉強になるなと感じた。

 

 

感じただけだ。「林ゆめさんの印象が良く変わった!」なんて一言もネットに書いていない。
私はそういう奴だった。正義感のかけらもなかった。

 

 

本当は数年前からおかしいと思っていた。テレビのニュースでもこぞって「ネットでは~~~との声があがっています」。誰だよ。それ誰の声だよ。見たことねえよ。今やテレビを見て初めて知ることなんてほとんどない。情報番組は全部NAVERまとめ状態だ。

 

 

ネットでの言葉の使い方を考えよう。有名人への誹謗中傷をやめよう。そんな呼びかけがこの一件で強まるだろう。でもなくなると思うか?なくなるわけないよな。娯楽だもんな。正義の斧で首元狙うのは世界で一番楽しいもんな。

 

 

だから私はもう一番卑怯な「黙る者」はやめようって思ったんだ。好きなもの、応援したい人、閉じてほしくないコンテンツには直接言葉を投げようって思ったんだ。30過ぎてテラスハウスとかジャニーズとか好きな自分恥ずかしいと思うよ。それでも好きな気持ちは出し渋らず直接その相手に投げると決めた。SNSじゃなくていいからそれは私の選ぶ形で、柔軟に、でも強い信念を持って投げようと思った。黙っていたくせにいざ死んだ後で「私は好きだったのに」「私は応援してたのに」って言う私みたいな卑怯者が反吐が出るほどキショイと思うんだよ。

 

 

数十時間前まで生きていた木村花さんがみんなに知ってほしかったのは。

「この世の中を変えたい」だとか「SNSの在り方を見直すメッセージに」とかそんなものじゃなくて。

ただ「苦しい」っていうただそれだけだったと思うんだよ。